閑話

某サイト上の文章を読んでおりましたら、その文章を書かれている方の先輩にあたる人物が、久しぶりに 「舞台でのマニピュレーション」 を演じるにあたって、昔の自分の映像をチェックしたところ、どうしても 「やり方」 の分からない部分があり、別の方法で代用したというエピソードを取り上げていて、 「自分で考えたやり方」 を忘れる、ましてや 「分からない」 なんて信じられないといったことを書かれていたのですが、これって、実際には充分ありえることだと思います。

とりあえず 「忘れる」 ということは、どなたでも体験していることでしょうから、これはあえて説明するまでもないでしょう。

問題は 「自分で考えたやり方が分からない」 という部分だと思うのですが、これについてはまず、 「自分で考えた」 という部分と、 「やり方が分からない」 という部分に分けて考えてみましょう。

正直 「分かる」 とか 「分からない」 という問題自体は、ある程度のレベルで演じられているものを 「普通に鑑賞する限り」 は、本来ならば(まったく)気にはならないはずの話であり、よほど酷いやり方をいている場合か、もしくはパズルの一種として 「その方法論」 を解析でもしない限り、 「分からない」、より正確にいうと、「やり方が透けて見えないので不思議に感じる」 ことは、ごく普通のことなのです。

推測するしかありませんが、その先輩自身も、時間をかけて解析をすれば、無論、皆目見当もつかない…… などということはないでしょう。 よほどかつての演技が、完成されていたか、現在の自分のセオリーにはない 「特殊な方法」 で演じられていたので、(すぐには)そのやり方を思い出せなかっただけに違いありません。

パズルとして見たときに、他の人のやり方が分からないといったことは、無論往々にしてあり得ることでしょう。 そう考えると、このエピソードを印象的なものとしている原因は、結局 「自分で考えた」 という部分なのでしょうが、……結論から申しますと、他の人の考えだろうと、自分の考えだろうと、上記のような条件における話である限り、そこに一切の差は存在しません。

それが何であろうと、分からないときは分からないものなのです。

さて、ここから先の文章は、冒頭に取り上げたエピソードと(直接は)関係のない話です。

私自身のことでいえば、自分で考えたり、構成した手順を忘れることは日常茶飯事ですし、ある人物の演じているトリックをほめたところ、実は自分がかつて教えたものであったり、自分の古い映像をチェックしていて、 「引っかかる」(自分自身に騙される) といった経験を、実に数多く経験しています。

物覚えが悪く、物忘れが激しいのは昔からですから、しょうがありません。しかし、ポジティブにとらえれば、観客気分で自分のトリックを楽しめるわけで、こんなに便利なこともないわけです。

このような話は、大抵 「笑い話」 として披露されることが多ものですが、真面目に語ると、以上のような話になるかと思います。

私に言わせれば、 「自分のトリックをすべて完璧に覚えている」 そう豪語できる人のほうが凄いことであり、それが真実ならば、その事実の方が 「特別なこと」 に思えてなりません。


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